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[Matchday 3] 「遊び」と「祈り」を忘れずに
ディエゴ・サトウ
1968年生まれ。外資系企業勤務。3児の父。サッカーの原体験は、ペレの引退興行でニューヨークコスモスが来日した時(1977年)の試合をテレビ観戦したこと。ひいきのクラブはFCバルセロナ。アイドルはマラドーナ、プラティニ時代のフランス代表、ファルカン(フットサル)。「永遠のエンジョイフットボールプレーヤー」。
長友とグアリン--ふたりの背中が語るもの
ワールドカップ観戦にかまけて……、いや本業が多忙のため更新が滞りましてすみません。
さて、わたくしがサボっている間に、なんと我らが日本代表はグループリーグを1分け2敗の勝点1という悲惨な結果で敗退しちゃいました。
ついには「サッカー王国」ブラジルがドイツ相手に1-7の惨敗! オーマイガッ! なんでもやってみないとわからないものですね!(すごくいい加減な感想)
うーん、日本はなかなか難しいグループだったとはいえ、「可能性もあった」んですが。
悔しいけれど、物事の進歩は一足飛びには行かず、三歩歩いて二歩下がる、ということなんでしょう。
歴史を思い返せば、サッカー日本代表には数知れない悔しい思い出の中に、わずかばかりの僥倖がかすかな光を放つ、そんな歴史を刻んできたのではなかったでしょうか。
そしていつも、遠い峰の向こうにかすんで見えているのが「世界」、というのが日本サッカーを取り囲むフツーの風景だったわけです。
その風景は97年、若き中田英寿率いる日本代表がジョホールバルでイランを破り、98年のW杯予選を突破したことによって劇的に変わりました。
中田はその後イタリアで華々しいデビューを飾り世界のナカタとなりましたが、選手としてかならずしも大成することなく引退しました。
それからホスト国として迎えた日韓W杯、ドイツW杯の蹉跌、南アW杯の涙ぐましい決勝リーグ進出を経てわれわれのまえに現れたザック・ジャパンは、マンチェスター・ユナイテッドの香川、ACミランで10番を背負う本田、インテル・ミラノでレギュラーを張る長友、という実に立派な看板を掲げるに至りました。
期待するな、といえばムリな話だったわけですね。
しかし、「条件さえ整えば」どんなに強い相手でもいい試合ができる、というレベルまで押し上げられたチームも、勝ち点1しか取れず惨敗という現実的な結果に向き合うことになりました。
コロンビア戦でピッチにへたり込む長友をなぐさめる、コロンビア代表で長友のインテルのチームメイト、グアリン選手の姿が印象的に報じられました。
彼らの美しい後ろ姿を見ていると、われわれのように長年、世界のサッカーファミリーの一員という実感の持てなかった世代にとっては隔世の感がありますね。
「日本が世界のサッカーファミリーの一員に認められた」ひょっとすると最初のW杯として記憶されるべきなのかな、と思います。
海外のメディアが厳しく日本代表のサッカーを批判したのも、香川、本田、長友を擁したダークホース、ニッポンへの期待の裏返しだったのでしょう。
「日本のサッカーファンのみなさん、おめでとうございます! ホロ苦くはあったけれど、われわれはとうとう、サッカーファミリーの一員になったんです!」
グローバル世界におけるplayとは
「サッカーファミリーの一員になる」ということは、サッカーにとってはとても大事なことに思えます。
それは、サッカーの本質、スポーツの本質、playすることの本質を、全地球的に共有する、ということだからです。
じつをいえば、今回の日本代表を見てわたしが感じたのは、「まだこの選手たちは、『プレイ』の本当の意味、その行為の本質が十分に身についていない」ということでした。
プレイは、もちろん「遊び」です。だから、楽しくなければそもそもやる意味がない。
あくまで「遊び」という前提のうえで、真剣に戦う。
場合によっては相手を打ち倒すほどの真剣さで戦いながら、それでもあくまで「遊び」だというのがプレイです。
そう考えると、プレイ、あるいはスポーツというものがそもそも、近隣の他国や他民族と常に争ってきた大陸の人々の文化だと言うことができるかもしれません。
これは当たり前のことですが、残念ながら、今回に限らずわれわれの代表は、結果に対する過度の責任感によって「プレイを楽しむ」ということを忘れてしまっているように見受けられます。
アルジェリア、チリといった、下馬評では日本を下回っていたほどの国があれだけ人の胸を打つ、素晴らしい試合を実現できたのにも、プレイを真剣に楽しむという姿勢が関わっているように思えます。
グローバルなビジネスの世界でも、ほとんど同じことが言えるような気がします。
グローバルな市場ではまず、投機的な資本が流動的に動いており、投資はいわば「プレイ」です。
グローバル企業はこの投資を受け、リスクをかけてビジネスにチャレンジし、成功すれば資本家に多くのリターンを返し、税金を払うことで公共の責任を果たすことができますし、失敗すればツブれます。
グローバル企業は、競争相手を容赦しません。
それこそ身ぐるみを剥ぐほどのいきおいで相手のよさを潰し、出し抜こうと日々切磋琢磨しているわけです。
それはリスクをかけた一種の「プレイ」であり、「失敗したら信頼を裏切ることになる」「お金を貸してくれた人たちに、孫子の代まで恨まれる」というような道義性、あるいは「敗北は恥」という感覚とは、本質的には無縁です。
もちろん、われわれ日本人の倫理観によって受け入れられるものであるかはともかくとして、事実として、現実のグローバル世界がこのような「プレイの原理」で動いているとすると、教育の場においても「プレイの本質」について学ぶという視点が求められるのではないでしょうか。
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