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【私たちはどう生きるか03】競争至上主義の世界で「勝ち抜く」以外に賢い選択肢などあるのか


生まれ育った環境、用意された目的の選択肢から自由になり、放浪を通して自分の目的を求めていくことを前回の記事で書きました。これに対して、「競争に勝つこと以外の目的がないような人生が、日本の若い世代のリアルはないか」という意見をもらいました。「競争社会」「目的」「息苦しさ」というテーマを本記事では探求していきます。


人生の目的は「競争で勝つこと」では?

ボクらの世代は、競争社会で勝ち抜くということが内面化した不変の目的になってしまっている気がします。もはや自分の傷に敏感な一部の人しか「息苦しさ(生き苦しさ)」を抱いていないのかもしれません。

人生の目的に、なにか崇高なものが含み持たされているのなら、それこそ逆に非内面化してしまうのではないかと感じました

(東京都出身、大学1年生)

たしかに私たちは「個人が自由であることを強要される」競争社会に生きています


■競争が普遍化している「Gen Z」という世代

質問者は大学1年生で私は26才なので、8才近くの年齢差があります。個人の違いを世代差ですべて説明することは不可能ですが、生まれ育ってきた世代の空気と影響はたしかにあるものです。アメリカは世代論が盛んで、「ミレニアル世代」(Millennial Generation or Generation Y、1980年代序盤から1990年代中盤に生まれた世代)、「Z世代」(Generation Z or Gen Z、1990年代半ば〜2000年代前半生まれの世代)など各世代が自分自身を特徴付けています。

日本の若い世代(アメリカではGen Zにあたる)は、「競争が普遍的な目的で、他の目的に対するシニカルな態度が特徴である」ーー極端な意見のように聞こえますが、あながち間違っていないかもしれないと私は思います。

Photo by Ryoji Iwata on Unsplash

若い世代は時代の変化にもっとも敏感なものです。時代が競争を求めるならば、若い世代、とくに優秀と言われる人たちほど、競争を勝ち抜くことを自分の目的として内在化するものでしょう。

経済競争が激しさを増しているのは、先進国の経済成長の停滞、グローバル化の過熱などからも明らかです。この状況に、国や教育機関は、国際競争力を保つためにさまざまな取り組みを行います。

たとえば、プログラミングなどの実利重視の教育が早期から盛んになる、英語教育や留学が促進されるなど。優秀であるとは、このような社会の空気に敏感に反応して「競争で求められる能力を身につける力」のことでしょう。

競争そのものは常に存在してきたのでは? という意見もあります。たしかに、近代社会の誕生と競争は切っても切り離せない関係にあり、とくにエリート意識をもった人々の間では今も昔も競争は存在してきました。ただ、かつての競争は往々にして学歴や組織によって定義されてきたと言えます。競争の先には誰もが憧れる企業や組織があり、所属する集団の中ではさらに競争があり、といった風です。

対して、いまの競争はより個人主体になっているようです。力ある集団に属していれば安全だったのが、アメリカのように、個人の競争力なしには安全が保証されない社会に日本も変わりつつあるのでしょう。そのために、いかに個人で価値を生み出す経済主体になるかが、競争の主眼に置かれるようになっています。個人主体の競争はより熾烈で、早期からの個体化、知識やスキルの専門化が求められます。


■個人の自由の追求が「目的」化された現代

しかし、競争を唯一至上の目的とする世界観の背景には、単なる競争の過熱以上に示唆に富んだ文脈があります。これは若い世代に限らず、世代をまたぐものです。つぎの問いを考えてみましょう。

現実に、競争以外の共通目的がいまの世の中に存在するのか? つまり、経済的な自由を基盤とした個人の自由の追求以外に、どんな目的が現代の人々の間で共有され得るのか?

競争至上主義とは、この問いに対する答えの糸口が見えず、また、答えを求めるインセンティブを人々に与えない世界のことです。目的とはつまり、人々や物事と交わる、意味ある人間の在り方です。

現在の場所に世界が至るまでに、これまで数多の目的が生まれては消えていきました。宗教的な共同体があり、共産主義、社会主義、ボヘミアンやヒッピーと、色彩豊かな目的の数々が近現代の過去にはありました。これらは当時の若い世代によっても熱く支持されていました。しかし、時代の流れに耐えて、いまも勢いを保っている目的は多くはありません。

これは哲学にも似た傾向が見られます。かつて「人間はいかに生きるべきか?」が真剣に語られていた時代がありました。しかし、近現代に欧米で発展した分析哲学では「〜すべき」という目的に関する議論は哲学の対象から外されました。

多様な目的の価値の優劣は、哲学的な方法では合意に到達できないとされたからです。これは哲学界の全員が同意する立場ではないものの、いまでも影響力の強い見解になっています。


■それはつまり「自由な個人であることを強要される」競争社会

こうして今日、私たちの手元に残ったのが競争至上主義です。ある人は自由主義と呼び、また別の人は文化相対主義とも名付けます。

ざっくり言えば、「世の中にある多様な目的の価値はどれも等しいから、各々の目的を追求するための個人の自由を最優先しよう」という世界観です。聞こえはいいですが、すべての基盤とされる経済的自由を唯一の共通目的かのようにした、本末転倒な姿が実情です。このために現代は「フラットな世界」と呼ばれます

どこまでも自由な個人であることを強要される競争の社会。各々の目的を追求するための個人の自由が最重視されながら、逆に、社会ではすべて他の目的が軽んじられる矛盾。シニカルな態度は自由な個人の孤独と矛盾に由来するのかもしれません。

目的は個人の創造物ではなく、社会的な生成物です。個人であるために熾烈な競争を強いられる社会では、目的のために必要な人々の間のつながりが失われてしまいます。


■熾烈な競争の先にある「分断された社会」

ここで皮肉なのは、高い教育を受けたエリートとされる人たちほど、別の目的を求めるインセンティブが低い現状です。前回の記事に書いたように、真の意味での教育は「新たな目的の選択肢を人に与えるもの」です。

しかし、今日の世界で教育を求める若者は、同時に経済競争にいち早く巻き込まれることになります。学位には市場で高い値札が付けられています。身銭を切ってまで新たな目的を求める理由は、なかなか見えにくいものです。

しかし、競争できる人たちはまだ救いがありますが、そうでない人たちはどうなるでしょうか?

競争至上主義での人々の間の分断は、ある意味、現在の先進国の多くが置かれている状況です。過熱する個人間の競争があるいっぽう、他方に取り残される人々、結果として分断される社会があります。

単純化された図式ながら、とくにアメリカとヨーロッパの一部、また今日の日本も多かれ少なかれ当てはまるものです。八方塞がりに見える現状をどうするかは、私たちに突きつけられた難しい問いです。

芥川龍之介は『河童』(1927年)でこう書いています。「もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」。村上春樹の小説がこれだけ共感を集めるのも、芥川の言うシニカルな賢さが、現代を生きる人々のデフォルトの存在状態になっているからでしょうか。

以上の現状でもっとも賢い選択は「競争に熱中すること」なのは明らかです。競争に求められる能力と資格をあなたが備えているならばなおさらでしょう。

この選択は誰にも責められるものではありません。ひとりが身銭を切ったところで、大きな流れの何が変わるのか? 至極当然な疑問です。


■「息苦しさ」を自覚することは希望か絶望か

ただ、個人の競争を目的にした世界は狭く、息苦しいものであるのは事実です。息苦しさ(生き苦しさ)は渦中にいる人々の意識にはのぼりません。ある意味、人生が息苦しくなればなるほど、日々の生活の中で息苦しさは忘れられるという矛盾があります。私たちが忘れられるようになるために「娯楽」が存在していると言ってもいいかもしれません。

また、息苦しくない状態を知らなかったら、息苦しい状態自体もわからないものです。たとえば、はじめて日本という国を離れて、アメリカで暮らしたときの開放感を筆者はいまでも鮮明に覚えています。日本とは別の文化があるなどとは、頭で理解はできていても、実感として知らなかったのです。同じように、時代に特徴的な世界、目的というのは、それ以外のものを知ることなしには、人々の意識にすらのぼらないものです。

それでは何か案があるのかといえば、残念ながら、いまの筆者の力量では答えられません。違うものを知ることが必要だと上に書きましたが、グローバルの時代の特徴として、どれだけ世界の隅々まで行こうとも、本当に違うものに出会うのは日に日に難しくなっています。私のいるインドでさえ、とくに若い世代は日本やアメリカと大差がなくなっているのです。それならば、息苦しさだけを知ってどうするのか? 何の意味があるのか?

魯迅を引き合いに出すなどとは傲慢ですが、ここで彼の有名なエピソードを思い出して、記事を終わりたいと思います。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」

と、わたしはただこう言ってみた。

すると彼は

「そうして幾人は已に起き上った。君が著手しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」

魯迅「吶喊(とっかん)」(1922年)

青木 光太郎インド各地を放浪する修行者。日本で生まれて高校まで日本で育つ。フリーマン奨学金を受けて、大学はアメリカのコネチカット州にあるウェズリアン大学で西洋哲学、特にスピノザとハイデガーを学ぶ。2016年に大学卒業後はグローバル投資会社からバーの皿洗いまで広く社会経験を積む。2018年春に日本を離れてアジアとヨーロッパの各地を訪れ、フランスのキリスト教の共同体「テゼ」にてある気づきを得る。現在はインドを放浪しながら、各地の師からヒンズー教の密教的側面を学んでいる。宗教や哲学の実践を通して人間の内面に関する真実を知り、現代の社会、教育、知識のあり方を問うていくのを使命とする。職業は翻訳家と文筆家。本サイトにて2017年〜18年にかけて「リベラルアーツ入門講座」を連載。[/author]

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