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【私たちはどう生きるか02】米国名門大を出ながら、自分探しとか目的もなく生きて楽しいの?


連載「私たちはどう生きるか」の第2回です。今回は、「哲学」「自分探し」「放浪」などに関する、挑戦的な感想と質問に答えました。


自分探しとか放浪とか、目的もなく生きて楽しいの?

自分は「哲学」とか「自分探し」とは真っ向から合わないし、わかり合うつもりもない。興味もない。そもそもなにが楽しくて放浪しているのか?

正直、放浪なんてなにが楽しいのかわからない。アメリカの名門大学で教育受けるなんて贅沢なことをしておいて、フラフラしてんのは正直いかがかと思う。目的なく生きることほどつまらないことはないと思う

(埼玉県出身、大学生)

その「目的」はどこから来ているのでしょうか?

興味がないと断りつつも、正直な感想と質問をいただき感謝します。このような直球の反応をいただくと対話の意味も増すので、とてもありがたい限りです。この回答は、質問者を説得するためではなく、互いに考える材料を得るためのものだと思ってほしいです。

あなたの言うことはわかる気がします。もし「哲学」「放浪」「自分探し」などが質問者の考える(と私が想像する)意味で使われるならば、それらに一歩たりとも近付こうとはしなかったでしょう。しかし、これらの言葉の意味するところは、私にとってはだいぶ違うものになります。この意味合いの違いを明らかにしながら、「教育」や「目的」とは何かということを、これから語っていきましょう。


■環境によって作られる「私」という存在

本題に入る前に、あるインドの寓話を紹介させてください。

その昔、南インドの草原に、食料の草を探す羊の群れが歩いていました。草原の片隅で、羊たちは親からはぐれたトラの赤ちゃんに出会いました。はぐれて時間が経つようで、誰かが面倒を見なければ餓死してしまう様子でした。羊の群れはトラの赤ちゃんの面倒を見ることに決めました。それから数年がたち、赤ちゃんだったトラもいまでは立派なトラに成長していました。しかし、このトラは少し変わっていて、羊のようにメーメーと鳴き声を上げ、食べ物も草だけしか口にしません。

ある日、数匹のトラがこのトラに出くわしました。草を食べてメーメーと鳴くトラに、通りがかりのトラたちは見かねて鹿肉を与えました。はじめはまったく口にしようとしなかったトラでしたが、ほかのトラたちの要求で仕方なく鹿肉を食べました。ひと口ふた口と頬張るうちに、トラは肉の味を思い出し、自分が本当は羊でなくてトラだったことを悟りました。トラは羊の群れを離れて、その後はトラとして生きました。

この結末に対して、ベジタリアンでもない限り(筆者はベジタリアンですが)、トラは羊のままでいたほうがよかったのでは? と思う人は少ないでしょう。あなたが通りがかりのトラだったら、羊のふりをしたトラはとても奇妙に映るはずです。

この寓話のメッセージは明らかなものです。私たちは自分が思う以上に、環境に作られた動物です。家庭環境、学校教育、社会構造や時代背景などの環境要因が、本来はトラかもしれない私たちを羊にしている、ということです。

ただ、これが人間となると少し複雑になります。あなたの言うように、人間は「目的」によって生きる、つまり、行動や選択の意味を自分自身に与えることができる生き物です。無益で希望のない労働について書かれた、アルベール・カミュの「シシュポスの神話」が示すように、目的なく日々を過ごすのは人間には耐え難いものです。


■その人生の「目的」はどこから来ているのか?

小さかれ大きかれ、私たちは何かしら目的を持って生活をしています。それは、美味しいものを食べることかもしれませんし、人類救済かもしれません。何にせよ、目的を選ぶことで意味を作り、人間は自分が自由であると思うことができます。ときには無味乾燥と過ぎる毎日を生きていくのを可能にしているのは、この意味と自由の実感でしょう。

しかし、この目的は、そもそもどこからきているのでしょう?

たいていの場合、目的は羊の群れに由来します。羊に育てられ、つねに羊の群れに囲まれていれば、本当はトラだったとしても、私たちは羊としての目的を選ぶようになります。それでも、目的を選んでいるのは自分で、自分は自由なのだと思い込むのが人間の常です。

環境要因が組み合わさって、人生には羊にふさわしい目的が常に用意されており、この限られた目的の選択肢から、私たちは知らず知らずの間に選択をしています。本来は別の目的があるかもしれないにもかかわらず、羊の目的を選び、この選択によって自分は自由なのだと人は思い込むのです

そして、羊としての目的を中心に回る毎日が私たちを忙しい状態にします。お腹が空けば草を探さなくてはならず、群れが南に動けば、そちらに進んでいかなければなりません。人間に当てはめれば、日々の宿題やバイトがあり、部活動に受験もあり、そのうちに就職活動を……また現代は資本主義と個人主義の世の中で、個人の自己実現と経済的な豊かさが正解であり……というように、各人生や各時代ごとに、個人に即答を強いてくる出来事で世界はあふれています。

自分が繰り返している、円運動の中心点を考える余裕もあまりありません。悲しいかな、人生は寓話と違い、親切なトラが鹿肉を届けに訪れる見立てもありません。


■放浪は人生の「目的」を見つけるための手段

自分は本来はトラだと気づき、トラに相応しい目的を見つけるにはどうすればいいか? それにはまず、羊の群れの「目的」から距離を置いてみる必要があるでしょう。これが「放浪」です。

放浪とは、与えられた目的を意図的にいったん捨てて、新たに目的を創り出すための空白の過渡期です。これまでの目的を捨てて、新たな目的の可能性に心を開くために、トラは羊の群れから離れなければなりません。

羊の群れに囲まれて育ってきたトラは、草原の地理を知らず、方向の当てもありません。まったく道に迷う危険を顧みずに、直観だけを頼りにトライアンドエラーを繰り返します。放浪は楽しいことではないですが、人生をつまらないものにしないためには、どこか何かしらの形で行われなければなりません。

目的なしに生きること以上に、本来は自分のものでない目的を生かされるのは、私たちには耐え難いことだからです。


■成長する過程で内在化された「羊」はかなりしぶとい

放浪を経てトラの目的を得たあとも、常にどこかに羊の影は隠れています。なぜなら羊の群れとは外に存在する以上に、私たちのなかにあるものだからです。親や教師などの権威的な存在からの期待、周囲の同調圧力、また時代が求める要求は、どれだけそれらが強くても、個人の意識に内在化されていなければ何の効果も持ちません

私たちが日々を過ごし、目的を中心とした円運動を繰り返すなか、これらの羊の目的に反応する意識ができ上がるのです。成長する過程で内在化された羊の存在はしぶといものです。自分がトラであると気づいたのも束の間、しばらくすれば忘れてしまい、羊の群れに戻ってしまうのが人間の意識です。

このため、私たちは問い続けなければなりません。自分は羊のふりをして生きていないかな? と。

放浪とは、本質において教育のことでもあります。教育とはまさに、自分を羊だと思っているトラに鹿肉を与えて、羊の群れから引き離すものです。つまり、環境という名の檻の存在、そして檻の外の世界を見せることで、檻の外に出ようとする欲求と手段を与えるのが教育です。

教育の質を決めるのは、どれだけ知識を頭に詰め込むかではなく、どれだけ目的の選択肢の幅を広げて、新たな意味と自由を得られるようになるかなのです。知的な方法を用いて、既存の目的を中心点としていた円運動から学生を外すこと。そして新たな円運動の中心点を学生が見つけるための手助けをするのが、教育の役割です。このために、たとえばアメリカのリベラルアーツ大学では、実学や時事問題といった既存の目的の円運動の一部である事柄からいったん距離を置いて、古典教育を重視します。

このように質の高い教育を受けた者の義務とは何でしょう? 教育を受けて自分がトラであることを知ったあとに羊の群れに戻り、羊の「目的」を全うすることでしょうか? それはおそらく違うでしょう。

トラがトラ自身の目的を生きて、願わくば、ほかのトラが羊の群れから抜け出して、各々の目的を見つけるための手助けをすることが、トラ(教育を受けた者)の義務ではないかと私は思います。もちろん、トラが自分自身の目的を生ききることから、すべてははじめられなくてはいけません。

既存の目的を囲む円の求心力は強いものですし、この軌跡から外れるのは、放浪を必要とする長く厳しい過程です。しかし、真の目的とはそれほど得難いものであり、だからこそ尊いものでもあります。


■放浪が発展させてきた人類の知識や技術

これは個人の人生に限った話ではなく、人間の文化や歴史全体の話でもあります。それぞれの分野や時代に、自分は羊ではなくトラなのだと知った放浪の人々や集団が、人間の文化や知識そして技術を発展させてきました。

昔の哲学者にデカルトやニーチェ、マルクスがいたり、現代の人物ではアップルのスティーブ・ジョブズも有名です。ユダヤの人々が残してきた人類への貢献や発明は、放浪の歴史と合わせて語られもします。

新たなものが生まれるためには、産みの苦しみ、失われた時間が必要なのです。禅問答にあるように、満たされた湯呑にお茶を注いでもあふれ出してしまうだけです。既存の目的、知識や慣習が空になっていなければ、新たなものは入らないのです。これは個人も社会も同じです。

抽象的概念に頭を悩ませるでも、生きる意味の答えを本のなかに探すでもなく、上に書いたようなトラの生き方を突き詰めるのが哲学です。それはかならずしも楽しいことではありませんが、真に目的をもって生きるのには必要なことかもしれません。

「羊であっても構わない、羊の目的にも満足している」と言い切れるならば、教育も哲学も必要ありません。ただ、それは本当に自由なのか? 本当に楽しく、意味のある生なのか? まず、こういう自問自答がされるべきでしょう。


■「自分の声に耳を傾ける」場所を見つけよう

それでは具体的に何をするのか? 文字通りに物理的な放浪があり、また精神的な放浪もあります。外国語を学んで国外の世界に身を置くことから、数百年前また数千年前に書かれた古典を読むこと、もしくは、ただ家の近くの砂浜で海を眺めることも放浪の形です。

人それぞれ、また人生の時期によって違うものです。それでも、まず自分にとっての聖地を見つけるのはいいかもしれません。アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベル(1904年〜1987年)は、次のように言いました。

私たちには、時間という壁が消えて軌跡が現れる神聖な場所が必要だ。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことをいっさい忘れるような空間、ないしは一日のうちのひとときがなくてはならない。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所だ。これは創造的な孵化(ふか)場だ。はじめは何も起こりそうにないが、もし自分の聖なる場所をもっていてそれを使うなら、いつか何かが起こるだろう。

こうして環境や時代の要求から離れた静かな場所と時間に立ち返るとき、つぎの問いかけが私たちの耳に聞こえてきます。この問いかけにどれだけ真摯に耳を傾けられるか、そこから一歩を踏み出すかが、私たちの人生の意味と自由の質を決めるものなのでしょう。

あなたは羊ですか、トラですか? もしトラならば、羊の群れのなかで生きているのはなぜですか?

遠回しな内容になりましたが、私の返事は以上です。もしもわかりにくい部分があったら遠慮なく教えてください。私たちが目的に恵まれた人生を送れますように。

青木 光太郎インド各地を放浪する修行者。日本で生まれて高校まで日本で育つ。フリーマン奨学金を受けて、大学はアメリカのコネチカット州にあるウェズリアン大学で西洋哲学、特にスピノザとハイデガーを学ぶ。2016年に大学卒業後はグローバル投資会社からバーの皿洗いまで広く社会経験を積む。2018年春に日本を離れてアジアとヨーロッパの各地を訪れ、フランスのキリスト教の共同体「テゼ」にてある気づきを得る。現在はインドを放浪しながら、各地の師からヒンズー教の密教的側面を学んでいる。宗教や哲学の実践を通して人間の内面に関する真実を知り、現代の社会、教育、知識のあり方を問うていくのを使命とする。職業は翻訳家と文筆家。本サイトにて2017年〜18年にかけて「リベラルアーツ入門講座」を連載。[/author]


 

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