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【私たちはどう生きるか】学び、進路、人間関係…人生の本質を考える連載がスタートします

生きるのが難しくなる時代が私たちを待っていると言われます。グローバル化、テクノロジーの革新、地球温暖化、平均寿命の劇的な延伸。先行きの見えない世界情勢、変化の速度を増す社会や組織。そんな世の中の不安を利用するかのように、手っ取り早い解決方法を約束するような言説は数を増やしています。何が必要なのか? 何が正解なのか? 私たちは、これからの世の中をどう生きるのか? これらの問いの答えは外に見つかることはありません。いつの時代でも、私たちが自分自身で考えて、精一杯に問いを生きることだけが、変化に対する答えを与えてきました。

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はじめまして、青木光太郎と申します。日本生まれ日本育ち、高校卒業後はアメリカの「ウェズリアン大学」というリベラルアーツ大学で西洋哲学を学びました。いまはインドでこの文章を書いています。

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私もこれからの世の中を生きる20代後半の若者のひとりであり、「私たちはどう生きるのか」という大きな問いに自信をもって答えられるものではありません。この連載では、この問いを中心に、みなさんと一緒に考えていくことで、私を含めて一人ひとりが問いを生きて、自分だけの答えに行き着ければと思っています。

inbal marilli

自分にとって本当に大切なものは?

連載をはじめるにあたり、まず、あるエピソードを紹介させてください。

数ヵ月前のことです。私のメールの受信箱に、見知らぬアドレスからのメールが届いていました。題名を見て「またこのメールか」と、しかめっ面の私は呟きました。ときどき、私のもとに母校の学生からメールが届いていました。

内容はだいたい同じで、私が卒業後に働くこととなった会社に受かるために必要なことを教えてほしいというものでした。これは業界で名の知られた投資会社で、経済学専攻やその他の学生が、卒業生の名簿から検索をして私にメールを送ってくるものでした。私は会社を4ヵ月足らずで辞めたのですが、雑事に追われて経歴の更新を先延ばしにしてしまっていました。

私が助けられることもないので、いつもと同じような返事を返そうとしたところ、このメールの送り主の書いたひと言が目に止まりました。彼は映画学と経済学のダブル専攻ということでした。私の母校は全米で指折りの映画学が有名な場所で、本当に映画や芸術が好きな学生でなければ、映画学を専攻することはありません。このことを少し考えてから、私は数行のメッセージを足して、彼に返信をしました。

[box type=”shadow” align=”” class=”” width=””]映画や芸術が響く心を持っているのだとしたら、これから進もうとしているお金の業界は、あなたにとって正しい場所ではないかもしれない。もちろん、あなたの人生なので私には関係ないことだけれども。ともかく、どんな道を進むのであれ、あなたが自分のなかにある大事で確かなものに向き合って、正直に生きていくことを願っています

その数時間後、彼から返信がありました。

[box type=”shadow” align=”” class=”” width=””]メールを受け取りました。今日の課題を終えてベッドに向かうところでしたが、あなたからのメールに、思わず、本当に深く考えさせられてしまいました。長いこと、自分にとって本当に何が大事なのか、私に問いかけてくれるような人はいませんでした。正直なところ、いまの私には答えがわからなくなってしまっています。とりあえず、少しでも興味のあるものを試してみることからはじめるしかないとは思います。ともあれ、あなたの真率な言葉にはとても感謝しています。ありがとう

学生からの返信に、私も深く考えさせられてしまいました。「長いこと、自分にとって本当に何が大事なのか、私に問いかけてくれるような人はいませんでした」このひと言が私に驚きを与えました。

アメリカのリベラルアーツ教育が学生に教えることがあるとすれば、この問いこそが本質であると私は考えていたからです。個人の興味関心を広げ、掘り下げ、追求していくのに、これ以上とない環境がリベラルアーツ大学でした。しかし、そんな場所でさえも、このためのもっとも大事な問いが見逃されてしまうことがあるのが、彼の言葉から明らかにされていました。思い返せば私自身も、大学でのあるアーティストとの出会いがなかったとしたら、いまはまったく違う人生の場所にいたかもしれません。

このメールのやりとりから私はあることを思いました。いかに今日の教育の場において、ほとんどの生徒が、生きていくためにもっとも大事な問いを教師や親から教えられることがないか。それは「私たちはどう生きるか?」、また「私にとって何が大事なのか?」という問いです。

生きることは「選ぶこと」の連続

生きていくことは、何を残して、何を捨てるのかの取捨選択です。この選択をするためには自分にとって何が大事なのかがわかっていなければなりません。そして、世の中という大海の海流に流されず、絶えず打ち寄せてくる波にも飲まれず、この大事なものをどうやって自分のなかに守っていくのかを、私たちは学んでいかなければなりません。さもなければ、不透明さと複雑さを増す世の中に流されるまま、大事なものまで捨ててしまっていた自分に、後悔のなかで私たちは気がつくことになるのでしょう。

あなたが若く、たとえば私にメールを送ってくれた彼よりも若かったとしたら、こんな話は自分には関係がないと思うかもしれません。宿題や友達付き合い、部活動で毎日が忙しくて「どう生きるか」は遠い未来のことかのように聞こえるでしょう。

けれども、この問を考えはじめるのが早ければ早いほど、あなたはもっと自由に、自分の望むような生き方ができるようになります。親や先生、周りのみんながそうしているからという理由でいまいる場所から離れて、あなたは自分で道を決めていくようになっていきます。それに、あなたはもう十分に選択ができる年齢でもあるのです。何を学ぶか、どんな友人と付き合うか、どのような進路を選ぶか。それぞれの選択がいまの、同時にこれからの生き方を決めていっているのだから。

私たちはどう生きるべきなのか

そもそも、なぜ「私たちはどう生きるか」という問いが発せられるのか? それも「何をして生きるか」ではなく「どう生きるか」。これは2000年以上前のアテネで、哲学者のソクラテスが発したのと同じ問いです。宗教的な権威や文化的な慣習に盲目的に従うことではなく、「どう生きるか」を個人が考えることの重要さを訴えた、西洋ではじめての人物が彼だったと言われています。遠い天国や宗教の世界から、人類にとっての永遠の問いを地上に引き下ろし、彼は町の広場、見知らぬ他人の家の中にまで問いを持って行ったのでした。

ソクラテスが投げかけたのと同じ問いが、時を変えて場所を変えて、繰り返し問われてきました。なぜか? まず、この問いには答えがないからです。そして、この答えのなさは私たちに与えられた自由を意味しています。つまり、人生はどのようにも生きることができ、どのような答えにも開かれているということです。どのようにも生きる自由が与えられるとき、この自由に対して責任を持とうとして、「どう生きるか?」という問いを私たちは自らに与えます。

私たちは各々のやり方でいい人生を生きたいと思うものだからです。この問いかけの行為は人類共通の同じ源から出てきています。しかし、問いに答えようとする行為は常に孤独で、避けがたく個性的なものです。道なき道を進み、終わりになってようやく、人生という開かれた問いに自分だけの答えを加えていたことがわかります。

今日、かつてない自由が私たちに与えられていますが、自由であるという実感はいままでになく遠いものです。選択肢は無限のようにありますが、選ぶことは困難を極めています。「何をして生きるか」は、時代の変化が激しくなればなるほど、問う意味をなくしていきます。

そのいっぽうで、何千年もの間「どう生きるか」が繰り返し問われるのは、ここで人間にとって変わらない何かが問われているからなのです。現代の自由と選択の困難に直面するためにも、「どう生きるか」は改めて問い直されなくてはなりません。

そして、この問いを生きていくことで、いつの日か、はじめから選択する余地はなかったことがわかるかもしれません。目の前に無数に広がる「何をして生きるか」の選択肢は、「どう生きるか」の問いを前にして、霧が晴れるかのように消えていくことでしょう。残されるのは私たちにとってもっとも大事なことだけです。生い茂る枝葉がすべて刈り取られて道が明らかになるときまで、私たちは問いを生きなければならないのです。

しかし、自分にとって大事なことなど当たり前だろう、わかりきっていると言う人がいるかもしれません。本当にそうでしょうか? 私たちはどれだけ自分のことを知っているでしょう? 親や学校や社会もしくは会社にとって大事なことが、自分にとって大事なことにすり替わってはいませんか? そうだとしたら、あなたはどうやってそれに気づいて、自分を見つけますか?

まずは、自分の声に耳を傾けてみよう

必要なのはシンプルなことです。疑うこと。考えること。そして、信じること。

このシンプルだけど難しい3つのことの繰り返しを通して、私たちは「どう生きるか」の問いに答えていきます。みんなもしているようだし、これまで自分もしてきたけれど、これって本当なのかな? という疑いの声が聞こえてきたら、じっと耳を澄ませてみましょう。自分を少し遠くから見つめて、考えてみましょう。

そして、詩人のW・H・オーデンが書いたように、見る前に跳ばなければならないときが、いつか私たちを訪れます。もし、疑っても疑いようのないものが自分のなかに見つかったら、思い切って跳ぶ、信じてみるしかありません。疑うこと、考えること、信じることを繰り返していく先に、「どう生きるか」の問いへの答えが見えてきます。

この3つのことがシンプルだけど難しいというのは、ある種の孤独と危険を私たちにもたらすものだからです。自分で疑い、考え、信じることで、私たちは自由に向かうのと同時に、その責任を背負うことになります。この責任とは、ときに誰も歩いていない道を行く孤独と、整備されていない道にひそむ予期せぬ危険に、一人ひとりが向き合っていくことです。

ソクラテスが古代のアテネで毒杯による死に処されたのも、孤独と危険が伴う自由と責任の生き方を、彼が人々に教えたからでした。このような険しい道を進んで行くとき、ひとりだけでは厳しくなる場面が訪れます。そんなとき、ソクラテスとは言わずとも、誰かが道を一緒に歩いてくれるのは大きな助けになるものです。

あなたの「問い」を募集しています

そんな、みなさんが道を歩むなかでの連れ添いができればと、この連載をはじめました。

じつはいま、私はインドで修行者のようなことをしており、疑い、考え、信じることを繰り返しながら、道なき道を歩む毎日を送っています。私には特別な専門知識はありませんし、実利につながるような経験を持っているわけでもありません。これから世の中がどうなっていくのかの見通しを語ることもできません。ただ、こうして日々ひたすら道を歩いているので、もしかしたら、みなさんが道を歩む連れ添いくらいはできるかもしれません。

あなたにとっての大事なこと、「どう生きるか」の悩み、問いがあれば、私に送ってみてください。

たとえば、自分にとって大事なことはどうやったら見つかるのかというのも立派な問いです。できれば、悩みや問いを抱くようになった、いまのあなたの具体的な状況も書いてくれるといいです。個人的から時事的なことまで、大事なことや生きることに関する問いを一緒に考えていきましょう。どれだけ世の中が変わろうとも、決して変わらないものがきっとそこにはあるはずです。

これから7月の終わりまで、みなさんからの質問をいただいて、私が返事をするという形で2週間ごとに連載が更新されていきます。「私たちはどう生きるか」は大きな問いなので、各回のテーマを決めて進めていきましょう。目安としてのテーマなので、もちろんテーマ外の質問もいただけます。

初回のテーマは「学び」です。学校での勉強や学び全般に関する悩み、問いを受け付けています。6月10日(月)が初回の掲載日なので、1週間前の6月3日(月)までに質問をお送りください。

みなさんと一緒に問い、考えていくのを楽しみにしています。これから数回の間ですが、どうぞよろしくお願いします。

青木 光太郎インド各地を放浪する修行者。日本で生まれて高校まで日本で育つ。フリーマン奨学金を受けて、大学はアメリカのコネチカット州にあるウェズリアン大学で西洋哲学、特にスピノザとハイデガーを学ぶ。2016年に大学卒業後はグローバル投資会社からバーの皿洗いまで広く社会経験を積む。2018年春に日本を離れてアジアとヨーロッパの各地を訪れ、フランスのキリスト教の共同体「テゼ」にてある気づきを得る。現在はインドを放浪しながら、各地の師からヒンズー教の密教的側面を学んでいる。宗教や哲学の実践を通して人間の内面に関する真実を知り、現代の社会、教育、知識のあり方を問うていくのを使命とする。職業は翻訳家と文筆家。[/author]

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