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【リベラルアーツ01】日本の教育はなぜもったいないのか? 鉛筆からはじめるリベラルアーツ

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リベラルアーツについてお話します

はじめまして、青木光太郎と申します。

米国の「ウェズリアン大学 Wesleyan University」というリベラルアーツ大学を2016年に卒業した、日本生まれ日本育ちの日本人です。小中高と日本で過ごし、2012年から4年間をアメリカで過ごしました。

Wesleyan University

Wesleyan University

今回から5回に渡り、「リベラルアーツ教育と教育の将来」についてお話しすることになりました。読者は、「自分が将来受ける教育を決めていこうとする中高生」を想定していますが、保護者や教育関係者にも参考となるよう奥行きがある内容を心がけていきます。

*  *  *

ここ10年ほど、日本でも「リベラルアーツ教育」という概念が少しずつ浸透してきたようです。

早稲田大学や国際教養大学、東京工業大学などにおける学部教育やセンターの創設、また、ビジネス界隈でも「教養」の重要性が増してきています。

しかし、これら日本の大学やビジネス書籍が「教養」を語るとき、リベラルアーツのもっとも重要な側面は見逃されています。

リベラルアーツ教育の中心にあるのは、「幅広い知の習得」「議論する力」などといった客観的な知識や能力の育成以上に、「自分」と「世界」の発見と理解、その関係性の変化にあるのです。

第1回「鉛筆からはじめるリベラルアーツ」では、中高生の進路、勉強と教育の意味などのテーマから、リベラルアーツ教育の知られざる根幹の哲学を紹介していきたいと思います。

日本の教育はもったいない

もし、あなたが数年前の私と同じように素直な好奇心と多少の反骨精神を持つ中高生なら、「なぜ勉強をしなければならないのか?」と親や教師、なにより自分自身に問いかけたことがあるでしょう。

日常生活に役立たない数式の羅列や、実用性のない外国語の暗記、「著者の意図」をなぞるだけの国語の授業など、「なぜ?」と問い始めると途端に行き止まりになってしまう日本の教育。大学に合格するまでの我慢だと耐え忍ぶのが、頭のいい生徒の戦略のようです(勉強に見切りをつけた私は、見事に部活に全精力をつぎ込みましたが)。

「これは非常にもったいないことだ」と、数年後に私は思いました。なぜなら、勉強は知識や技術の詰め込みでなく、人が「自分」になるための手段だからです。

私が学んだウェズリアン大学は、「「世界」を知り、自分という人間になるために勉強をするのだ」という大事なことを教えてくれました。しかし、「元から自分は自分であって、自分になる必要などない」と人は言うかもしれません。

はたしてそうでしょうか。

私たちは、往々にして生まれ育った環境に規定されています。政治家の子息が政治家になり、進学校の生徒が同じような進路を選ぶように、私たちを取り巻いている「世界」から外に出ようとするのは稀です。

この環境からの限定を超えて、「自分」の生きる「世界」の可能性を開くのが教育の機能なのです。私たちを取り巻く「世界」に対する批判的な意識を作り、「自分」と「世界」の関わり合い、そして「世界」の組み立て方を学ぶのがリベラルアーツ教育です。

鉛筆から問われる「世界」と「自分」とは

上記のポイントについてさらに考えを深めていくために、1本の鉛筆を思い浮かべてみてください。ペーパーレス時代に鉛筆の例はナンセンスだと批判する方も、鉛筆とリベラルアーツ教育に何の関係があるのかと疑う方も、想像してみてください。

緑色でも赤色でも、黒鉛筆でも色鉛筆でも大丈夫、どこにでもある普通の鉛筆です。

では、ここで質問です。この鉛筆を鉛筆たらしめているものはなんでしょう? ただの木の棒でもなく、炭素の芯でもなく、鉛筆が鉛筆であるのはなぜなのでしょう?

「単純な質問だ。鉛筆は鉛筆であって、紙の上に文字を書けるから鉛筆なのだ」。こういう答えも出るいっぽう、または鉛筆という漢字から由来を探す人もいるかもしれません。ここではとりあえず、機能性と名前の由来などから、鉛筆やその他の道具は成立している(鉛筆が鉛筆としてある)としましょう。

人間の世の中にあるものは機能(「〜として」)があり、この機能がお互いに関係し合うことで、ひとつの「世界」が存在します。例えば、上の例で言うならば、鉛筆と紙は書いて書かれる関係にあり、または突いて突き破られる関係にもあり得ます。文字の書かれた紙は手紙や請求書として使われ、その後はゴミとなり、捨てられていきます。

このように道具には特定の機能があり、互いに関係し合っています。これは道具にかぎらず、世の中の人々や出来事も特定の関係性を以て、動いています(例:家族、学校、その他)。この関係が複雑に絡まってできたものが「世界」として存在し、私たちの社会は無数の「世界」が組み合わさり、重なり合いながら成立しているのです

では、この関係性の「世界」で、あなた(読者)をあなたとしているものはなんでしょう? これは難しい質問です。

先ほどの鉛筆と同じようには考えられません。機能性や名前の由来であなたという人が決まるならば、あなたは両親のもとに生まれた子どもであり、どこぞやの中学高校に通う生徒であるだけの存在です。

しかし、道具と異なり、あなたの生には元々決められた機能(「〜として」)がありません。この存在が大学生になったり、もしくは高校を中退したり、起業家にもなる。人生の道を進んでいくなか、枝分かれする地点で、人間は自分がどういう存在であるかを決めていきます。

人間の場合は鉛筆のように固定された機能がなく、「自分」(アイデンティティ)を自分自身で決められる特性があるからです。どの「世界」に所属しながら、どのように物事や出来事と関係していくか—これが「自分」となるための問いなのです。

世界を知って「自分」となる

しかし、水を得た魚という言葉が示唆するように、「自分」となるためにはそれに適した環境が必要になります。ここで教育の出番となります。

鉛筆でも車でもなく人間であるあなたは、教育を通して「自分」になります。

たとえば、日本の歴史を学ぶことは日本人であるのを知ることであり、日本という「世界」に作られている自分を知ることにつながります。または、線形代数の証明に夢中になることが、文系だと信じてきた自分の新たな側面を見せます。あなたという人間に理系の「世界」が開かれるわけです。

これまで親や学校、地域や国によって縛られてきた自分の生きる「世界」の可能性が、教育により広がります。様々な「世界」を探求し、自分の「〜として」の可能性を広げるのがリベラルアーツ教育です(例:日本人として、理系として、その他)。

自由で柔軟な教育は、次のような問いを生みます。社会が内包する複数の「世界」から自分はどの「世界」に所属するのか?

どのように「世界」を構成している物事や出来事の関係性(「〜として」)を知るのか?これらの問いはテレビの前に座ってニュースを見ているだけでは答えられません。「世界」が私たちに開かれ、「自分」となっていくためには、「世界」の成り立ちを学ぶ必要があるのです。

温故知新によって批判的思考を身につける

リベラルアーツ教育は「人間」という「世界」の教育だと言われます。

具体的には、時代と共に移り変わる実学に対して、哲学、心理学、経済学、歴史学や物理学などの古典教育を重んじます。なぜなら、古典が「人間」の「世界」を構成するものであり、世の中に無数にある「世界」は、「人間」という大きな「世界」に内包されるものだという見方が核にあるからです。また、温故知新という言葉にあるように、私たちの生きる現代という「世界」のあり方を新しい目で見るために、古い「世界」を学びます。

これらの科目は、受け身で知識を吸収するのではなく、議論や論文などでアウトプットすることが重要視されます。なぜなら、リベラルアーツ教育の焦点になるのは単なる知識の暗記ではなく、「自分」が「世界」とどのように関わり、その関わり合いを作っていくかという点だからです。

そして、このアウトプットの成果を丁寧に見るために、少人数での授業が基本となっています。

これらの過程を通して、学生は自身に固有の感じ方や考え方、そして「世界」の成り立ち方を知ります。具体的には、「批判的思考」や「論理的思考」と言われる能力が鍛えられます(これについては第2回で詳しく説明します)。

リベラルアーツ大学ゆえの危険性

これだけ自由かつ柔軟な学習環境を与えられると、これだけ自由かつ厳しい環境を与えられた場所では、大学の門を叩いて入学したばかりの学生と、そこで4年間を経た学生は別人となります。

私の友人は、入学当初はキリスト教徒、将来は医師になるという保守的な人物でしたが、卒業する頃には仏教に凝り、哲学に精通する進歩派の人物になっていました。または、毎週末パーティーに明け暮れていた人物が勉強に目覚めて、いまでは世界の経営学の権威で研究をしている例もあります。

ただし、リベラルという言葉から連想されるように、リベラルアーツ大学は政治的、文化的に自由主義であり、卒業時には社会に適合するのには自由すぎるレベルの人物となってしまう危険性もあります。

現代の日本にこそリベラルアーツが必要だ

このような見方を唱えると、「教育とは社会で役立つ人材を作るものだ 」「そのような教育でどう卒業後の世界へと生徒を準備するのか」という声が聞こえてきそうです。

しかし、人々の営みが多様化し、寿命が伸び続ける現代において、短期的な目線での教育は逆効果と言えます。加速度的に変わり続ける「世界」であるからこそ、リベラルアーツ教育が必要なのです。

私たちの時代は、グローバル化、雇用の流動化が進み、一人の個人が経験する「世界」の広さは従来とは比べ物にならないほどになりました。個人が経験する「世界」が広くなれば、その個人を育む教育もまた、広く、柔軟なものにならなくてはなりません。

大学でのリベラルアーツ教育は、学生に「人間」という広い「世界」を泳ぐ自由を与えます。この「世界」を泳ぐのには4年間ですら短いですが、卒業後の「世界」を探求して、「自分」を生きる好奇心と強さを学生に与えるのです。

いささか大上段に構えた物言いとなりましたが、リベラルアーツ教育は「個人が自分という人間になる」ための教育だと理解いただければ十分です。

しかし、「この教育がどう現実生活と関係があるのか(職が得られるのか)?」という疑問も生れるかもしれません。また、少人数で高額な教育となるため、費用対効果も問われます。

第2回では、実際の授業の様子や学生の進路を紹介しながら、リベラルアーツ教育の価値について具体的に説明していきます。

第2回 リベラルアーツで身につける思考法 >>


※青木さんが主宰する「Liberal Arts for All」のリベラルアーツ講座が、2017年10月28日(土)に「自由大学」(東京・港区)にて開催されます。詳しくは、こちらの記事で確認を。

青木 光太郎

「Liberal Arts for All」主宰。翻訳家、ライター。千葉県旭市出身。中学高校時代は陸上競技の世界に浸かり、勉強に縁のない場所で生きる。高校卒業後に入学した千葉大学で、日本の大学教育、教授、学生に不満を覚える。資格をとれる学部に移ろうと、医学部再受験をするために予備校に通い始め、そこで勉強する楽しさを知る。興味が多岐にわたっていたため、このまま医者になるのはどうなのだろうかと考えはじめる。夏に開催されていたアメリカの大学合同説明会に参加し、リベラルアーツ教育について知る。そこから3ヵ月間猛勉強し、最終的にウェズリアン大学にフリーマン奨学生として合格。ウェズリアン大学では哲学を専攻し、芸術、歴史、文学、社会学などの授業を幅広く履修。卒業後は米系の投資運用会社に就職。4ヵ月で投資運用会社を退職し、その後に出版社やバーの皿洗いを経て、現在は翻訳を本業とする。

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